【サッカーを通して人生を学ぶ】

1章 サッカーの終わりに待っていたのは「虚無感」

私の学生時代、生活の中心にはいつもサッカーがありました。
サッカーのためにご飯を食べて、サッカーのために寝て、サッカーのために生活をしていました。
小学校から高校までそのような生活をしてきましたが、そんなサッカーの終わりはあまりにもあっけなかったのを今でも覚えています。

上手になりたい、結果を残したいという想いから、暑い日も寒い日もひたすらボールを追いかけていました。
しかし、高校サッカー最後の試合が終わった後に自分に残ったのは「虚無感」でした。

もちろん楽しい思い出もたくさんありました。
しかし、思うような結果が出なかったことで今までの努力が全て否定されたような気がしました。
そして、生活の中心であるサッカーの目標がなくなった私にとって心にぽっかり穴が開いたような感覚で、今後何を目指していけばいいのか分かりませんでした。

大学生になり、一時部活動に参加してみたものの、プロを目指すわけではない自分がここまでして何になるのか、上京して一人暮らしを始めたことでより今後の人生について考える機会が増えた時にサッカーを続ける意味を見出せませんでした。

2章 平和サッカーとの出会い

本格的にサッカーから離れて約1年。
その期間は人生をよりよいものにしようと様々な人に出会い、積極的に新たなことに挑戦していました。
しかし、自分の心が満たされない感覚がいつもありました。そんな自分の人生を変えてくれたチョン・ミョンソク牧師との出会いがあり、それを繋いでくれたのはサッカーでした。

初めて一緒にサッカーをした時に、そのサッカーは今までやってきたサッカーとは大きく違いました。

サッカーをする時はいつもこの御言葉を覚えて平和にするべきです。勝つより「平和と和同と健康」のための時間です。サッカーを通して人生を生きる方法を学ぶのです。

ただ手を抜くのではなくて互いに理解してあげて、譲歩もしてあげて、勝った方も負けた方も喜ぶ。
同時に自分がもてる最大限の力を発揮しながら互いに楽しくプレーする。関わる全ての人が喜びと感動を覚えるスポーツ。

今までは勝敗によって自分の存在価値を見出そうとしていました。そして、勝つために自分の技術や能力が伸ばすこと、相手を負かすことだけを考えていました。一方、体は老いていくもので、それを伸ばし続けることだけに励むのは不可能でした。また、結果によって全てが左右されてしまいました。
しかし、平和を目的とするサッカーは、敵味方関係なく関わる全ての人が喜びと感動を覚えるものでした。

3章 今までの優勝よりも嬉しかった準優勝

平和サッカーの大会でそのことを強く体感したことがあります。私はその日チームでキャプテンを務めました。自分のことだけではなくチームメイトを引っ張らなければなりません。熱中すればするほど目の前のことに流されて、本来の目的を忘れてしまうことがスポーツでは特に多いです。

しかし、サッカー大会の開会式で伝えられた一言で、自分の考えと行動が大きく変化しました。

「『平和』という単語を忘れずに」

苦しくて考えがはっきりしないような状況の中で「平和」という一言を握って、敵味方関係なく称賛し、励まし、感謝したことで、それが力になっていつも以上に走ることができました。

結果は準優勝。
しかし力づくで優勝した時よりもとても嬉しい気持ちになりました。自分の考えでは到底できないことも、神様に学んだ精神で「愛すれば、平和が来る」ということを感じた大会でした。

4章 見えないものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである

「考え」はいつも新たにすることができる。
結果が出なかったことで虚無感を感じていた私にとって、それは大きな発見でした。
サッカーは人生の縮図とも言いますが、「サッカーでこれが必要なように、人生でもそうだ」と繋がりが見えるようになりました。
サッカーのためのサッカーではなく、サッカーを通して人生を学ぶようになりました。

なぜそのようなサッカーができたのか。
聖書にはこのように記されています。

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。(コリント人への第二の手紙4章16〜18節)

これからもサッカーを通して人生を学び、多くの方々と平和サッカーを行っていきたいです。

 

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