神様と共に歩む平和サッカーの軌跡~大学サッカーの四年間~

1章 平和サッカーとの出会い


私が平和サッカーに出会ったのは大学1年生の時だった。
きっかけは部活の練習中に足を骨折し、サッカーができないことがきっかけとなり、人生について考えたことがきっかけだった。

それまで、プロを目指してサッカーをしていたが、高校・ユース選抜、世代別代表、全国優勝経験者などハイレベルの環境でサッカーをしながら、自分が本当に目指すべきところではないことを痛感した。
それよりも、自分がプロという目標に対しての取り組みが甘かったことも感じた。

そこから私は、なぜここまでしてサッカーをするのか、プロにはならないのになぜ部活でサッカーをするのか、サッカーをしたいのならサークルでもいいではないか。
親に寮費や部費、学費、すべてを払ってもらいながら、私は本当にこの大学生活を送っていいのだろうか、と自問自答する日々が続いた。

そこで、ある時、私は平和サッカーに出会った。
同じ授業を取っていた友人に誘われたことがきっかけだった。
初心者もいると話を聞いて、オフの日に体を動かす程度で行く軽い考えで参加してみた。

実際に、サッカーのレベルは普段やっている部活に比べたら劣るけども、「熱量」、「ゴールに向かう姿勢」の高さをすぐに感じた。
そして、何より驚いたのは、サッカーを通して「人生」を学んでいるところだった。

練習テーマを設定し、そのテーマに対して各々が考えながら、取り組み、成長しようとする姿勢が部活よりも感じられた。
試合の「勝ち」に一喜一憂するのではなく、その時間にサッカーを通して内面の成長をどれだけできたかに焦点を当てていたのだ。

これまでの私は「プロ」になるという目標だけで、「プロ」になって何を成し遂げたいのか、全く考えられていなかった。
ましてや、「プロ」を諦めるしかない現実を突きつけられ、サッカーをしながら何を目指すべきなのか、考えるきっかけになった。
それから、その平和サッカーについて、創設者である牧師先生の教えを通して、より平和サッカーの深さ、人生の理知を学ぶようになった。

そして、平和の精神はイエス様であり、神様から来ていることを学んだ。
神様、イエス様が共にする、人間の次元を超えた力、精神でやるサッカー。率直にかっこよさを感じた。
そして何よりも、牧師先生のプレーを映像ではあったが、初めて見た時、その精神、哲学が一瞬で感じ取れた。

私が牧師先生の信仰哲学を学ぶなかでも、特に印象的だったのは

「言葉よりも実践だ。」

というものだった。観念的な信仰ではない、ひたすら神様、イエス様の御言葉を実践し、天に栄光を帰する姿と、相手チームを恋人のように思ってイエス様の愛を実践する姿に感銘したのだ。

これまでのサッカー人生を通しても精神・人間性の大事さを感じてはいたが、
人間的な次元を超越した神様から来る力、精神力に大きな希望を抱いた。
そして、そこには試合の勝ち負けに一喜一憂しない、一生心に残る喜びを成すことができるサッカーがあることを感じた。

2章 平和サッカーの実践


それから、私は平和サッカーを部活の練習で研究しながら、実践した。
しかし、決して平和サッカーを実践することは簡単ではない。

部活の世界は、毎日しのぎを削り合い、殺伐とした雰囲気、一度の練習で序列をひっくり返すために、味方を蹴落としてでも這い上がろうとする世界。ミスをするようであれば、ひたすら勝利のために追求し合あう、プレッシャーとも闘い続ける世界だ。その雰囲気のなかで「平和」を成すことは決して簡単ではなかった。

その中でも私が自信を持ってできてことがある。それは「神様を呼ぶこと」だった。
自分のプレーをすることで精一杯だからこそ。「平和」は神様が共にしてこそできると考えたからこそ。練習前には必ずトイレで祈り、

「神様が共にしてくださるように」、「神様が願う通りにできるように」

と必死に祈った。
その過程でもがき、葛藤は数えきれないほど多くあった。
それでも、自分を作ることを徹底し、ひたすら自分の弱さに向き合い、自分にベクトルを向け続けた。
すると、周囲からの信頼が格段に上がっていき、いつの間にか2年生以下の大会でキャプテンを務め、カテゴリーもトップチームに上がっていた。その背景には、神様が共にしている自信と、イエス様から来ている平和の精神が自分の考え、精神を変化させていたのだ。

正直なところ、「試合に勝つ」ことだけを考えるならば、ずる賢くプレーした方が楽だ。
しかし、そのような勝利至上主義ではなく、敵味方関係なくプレーする人、見ている人、すべての人が感動し、満足し、褒めたたえ合う、そのような平和な試合をしてこそ、人生にとって特別な時間になることを感じた。

それは、人間によるものではなく、平和サッカーという神様が教えてくださった理念を実践した時に果たす事の出来るものであることを確信した。

3章 神様が共にした証


最後に、神様が共にされたとしかいう事のできない、大学4年間の成績を記し、終わりにしたいと思う。

  • 大学1年時:関東リーグ1部優勝
  • 大学2年時:関東リーグ2部降格
  • 大学3年時:関東リーグ2部優勝、1部昇格
  • 大学4年時:関東リーグ1部優勝

これを見るだけでも、壮絶な4年間を送っていることは明らかであり、関東リーグ1部優勝を果たすことがどれほど難しいことかは考えるに容易いだろう。

大学1年時、大学4年時の関東リーグ優勝を果たしたことの共通点は何か?
それは、私が大学1年、4年生の時に最上級生に神様を信じ、平和サッカーを実践する人たちがいたことだ。私が大学1年時には大学4年生に同じく御言葉を学び、平和サッカーを実践している先輩がいたのだ。

大学1年時に19年ぶりの関東リーグ優勝、その3年後の大学4年時に優勝を果たせたこと、これはもがきながらも平和サッカーを果たそうとしたことのうえに、ここでは書き尽くす事のできないほどに神様が共にしてくださった事を明らかにするものである。

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